あんパン教の紹介


☆あんパン教のルーツ

開祖の年齢から推測すると、明治30年頃に現在の東京都府中市の多摩川の河原にて上流から流れてきた、木彫りの観音様のような女性の神様か仏様か定かでないが、仏像を付近に住むある男が拾い上げたのが始まりである。

その男は、その仏像を家に持ち帰り、大切に仏壇に飾った。

この男、根は真面目のようだが、ユーモアの有る性格の持ち主で、この仏像の髪型が例えるなら黒柳徹子のような髪型だった、当時のあんパンは中央に桜の塩漬けが入っているものが主流だったので、これに似ている事からあんパン様と呼んだ。

きっと玉葱を連想していたならば、玉葱様と呼んだに違いないだろう。

その後のある夜、寝ていると夢の中にあんパン様が出てきて、仏壇に大切に供えてくれた事に礼を言ってきたという。

この夜以来、何か悩んだり迷ったりして寝ると、必ず夢の中にあんパン様が出てきては、有難い助言をしてくれたという。

自分の悩み以外でも、他人に何か相談されたりした日の夜も、その相談に対しての有難い助言を頂けたという。

周囲の人などに助言をしているうちに、周囲の人間から頼りにされるようになり、少数の信者と共にあんパン教を立ち上げ、教祖『現餡』を名乗った。

☆開祖・現餡師について

ある時突然身についた能力により開祖となった現餡師は、もちろん専業宗教家でなく職業を持っていた。

長野県伊那市出身の現餡師は、蒸気機関車に憧れを持っていて、鉄道員になるために上京し甲武鉄道という鉄道会社に就職し、保線の仕事をいていた。

ちなみに甲武鉄道は国鉄に買収され、現在のJR中央本線の一部になっている。

鉄道はどんどん伸延し、長野県まで達した頃に、長野県出身の現餡師は転勤を命じられる。

☆現餡師の苦悩

生まれ故郷に近い場所に戻れる、まして栄転であった、東京で一旗上げて故郷に帰れる訳なので光栄なはずだが、そうなると信者達と別れなくてはならない。

非常に苦しい選択を強いられた現餡師だが、やはり家族を養うためには収入は必要で、あんパン教の御布施だけでは生活を支える収入にはならないので、泣く泣く信者達と別れて長野に帰らなければならなかった。

教会として使っていた自宅を、一番弟子であった者に託し、あんパン様の像を置いたまま故郷に戻った。

☆新天地にて

長野に戻った現餡師は、故郷の伊那からの通勤は不可能だったので、諏訪に移り住んだ。

上諏訪駅から程近い諏訪湖の畔に家を建てた、ここが新たなあんパン教の始まりであった。

仕事のかたわら、少しずつ宣教活動も始めて、府中の時代と同じくらいの信者が集まって、定期的な集会も開いて少数ながらも宗教活動をしていたという。

ところが府中にあんパン様の像を置いてきたために、ご本尊不在の形の無い宗教ゆえ信じてくれる人を増やすのは難しかった。

☆接戒

現餡師は、夢の中であんパン様に会って有難い話を聞くことを『接戒』と呼んでいた、あんパン様に接して自分を戒める意味らしい。

現餡師には、二人の娘と末っ子に男の子が一人の計三人の子供がいたが、末っ子の男の子だけに接戒の能力が受け継がれた。

現餡師の長男は、後の二代目教祖になり『現秀』を名乗った。

あんパン教では、教祖は『現』の称号を付ける慣わしだ。

☆二代目教祖・現秀師について

勉強が得意な秀才だった彼を、父である現餡師は現秀と命名した。

現秀師は明治41年生まれで諏訪に引っ越してから生まれた。

成績優秀だった現秀師は、陸軍士官学校を卒業し、陸軍航空隊に将校として入隊した。

立川航空基地に配属され、以前父が住んでいた府中の家をもらいうけ、あんパン様のあるはずの府中の家に行くと愕然とする。

庭は草が生え放題になっていて、家の中には仏壇すら無い、もはや廃墟である。

現餡師が去った後は、あんパン教はすでに消滅していて、過去の信者も消息もわからずに、完全にご本尊を失った。

再び教団を立ち上げようとしたが、厳しい軍規などに阻まれうまくいかなかった、何より軍人が接戒の話をしても気違い扱いされるだけで、あんパン教の再建は不可能で、信者のいない孤独な教祖だった。

☆あんパン教の最期

現秀師には娘が二人いたが、接戒の能力は継承されなかった、ここで接戒の能力は男子にしか継承されないと気づく。

一方、諏訪では細々と続いているあんパン教も、現餡師が老いて体力も衰えてくると信者も減ってきてしまう。

そして日本は太平洋戦争の突入し、昭和19年現餡師は病気でその生涯に幕を閉じる、

奇しくも現秀師は、その三日後に戦死してしまう。

こうして明治から昭和にかけて続いたあんパン教は姿を消した。